はだの大日堂保存会

大日堂とは

大日堂は宝蓮寺(大日堂諸堂を管理しているお寺)縁起によると奈良時代の「天平14年(742年)聖武天皇勅願所として大日堂を建立し」とあり、「翌15年行基や良弁僧正の努力で蓑毛大日堂に五智如来が造立された」とあります。 その当時の様子は「貴賎男女の参詣は日夜市をなした。」とあり、威容を誇る大日堂に参集する情景が描写されています。 その後は中村兵吉氏が著書『相模の国府と国分寺』の中で、相模の国分寺は最初海老名国分にあったが、奈良時代の平地仏教が平安時代の山岳仏教に変移すると、元慶2年(878年)頃海老名より大住郡の蓑毛に移り、大住郡の国分寺で相模の国の政治の祈祷や祭式が行われたと推論されます。

大日堂 五智如来

大日堂

五智如来

大日堂は平安時代末期より南北朝時代はさびれ、室町時代の第12代住持の一輪満(1428年)の頃まで無住持の状態が続いていたといわれているが、正応2年(1288年)鎌倉時代後期に高峰顕日(こうほうけんにち-後嵯峨天皇の皇子である仏国国師)が近隣のいくつかの寺院を統合して宝蓮寺(当時は「薬音寺」と名付けられた)を開山した頃は、高峰顕日の徳を慕って参詣往来の人多くして、市が立ったと古文書に伝えがあります。また、室町初頭の南北朝時代には臨済宗の禅僧・抜隊得勝(ばっすい・とくしょう、1327~1387年)が大日堂に道場を設け、国中より300人を超える修行僧が集まったと云われています。抜隊得勝は地元、足柄上郡中井町の生まれで、後、山梨県甲州市塩山に向嶽庵を築き、臨済宗向嶽寺派の祖となった人です。
江戸時代に入ると、寛文9年(1669年)信仰厚い揖斐氏が宝蓮寺に巨額の寄進をし、諸所がことごとく修造されたとありますが、現在の大日堂は享保14年(1729年)に再建されたことが棟札で確認されています。
揖斐氏の功績により、揖斐与右衛門の亡き令室の法名・迎接院宝蓮信女を採り、「薬音寺」を「宝蓮寺」と改称したと由緒が明記しています。
仁王門の歴史については文献が見当たりませんが、現在の仁王門は様式などからは江戸時代末期のものだと推測されています。

仁王門 宝蓮寺

仁王門

宝蓮寺

文章出展 秦野市教育委員会著 「秦野市文化財調査報告書」

大日堂と宝蓮寺を紹介している野口以織さんのサイト ときたま大日堂&宝蓮寺